カウンセリングについて考える(23)

(23)  「響存」として最後まで生きる

 最後に私は、カウンセラーたる者は、――いや、人間はと言うべきであろう――生涯自分を見つめ、自分の人生の意味を問い直し続ける必要があると思っている。我々は生きている限り、いくら年齢を重ねても心穏やかで、満ち足りた充足の日々を送ることは出来ず、煩悩に捉えられ、迷ったり、体力の衰えや病気に苦しんだりすることを避けることは出来ない。晩年になれば、もっと穏やかな日々が続くものと我々は思いがちだが、現実はどうもそうではないらしい。私の場合、この年になって若いころのノイローゼとは縁が切れたが、依然として迷うことや分からぬことだらけで戸惑うことしばしばである。

 何よりも死という人生最大の難関が待ち構えている。何やかやと言った所で、所詮、人間は皆死ぬのである。いや、生あるもの、動植物の別なく皆死ぬのである。

 ――「やがて死ぬ 我が身も知らず 蝉の声」――

 私はもはやこの句の中の激しく人生を謳歌して鳴く蝉ではない。ほとんど鳴き終わって、大地に帰る寸前の老いた蝉である。しかし激しく鳴くのを止めて、辺りを見渡せば、この世界はまたなんと美しいことか。そして、そこに生きるものたち――隠された宇宙の意志に生を託して、多くの迷いや苦しみと、幾ばくかの楽しみと喜びとをない交ぜに味わいながら、短い一生を終わろうとする無数の生きものたち――が否応なく目に入ってくる。自分もその一人に過ぎないのだ。そういう思いが深まるとき、私の中にわけの分からぬ悲しみや生きとし生けるものへの愛しさがこみ上げてくる。いやそれどころか、生あることの楽しさや喜びまでもがじんわりと湧いてくるのである。これは一体どういうことだろう? 

 巷で見かける老人たちの眼差しもどこか自分と似て、苦しげである以上に悲しげに見えるし、おまけに優しくて少しばかり明るくもあるのだ。そういう老人仲間を見ていると、私もそのような老人の一人でありたいと思うし、せめて自分の出来る範囲で、人々のお役に立てたらとも願う

 私はそういう矛盾と悩みに満ちた豊かな晩年の人生を、味わいながら大事に生きていきたいと思っている。人間や社会や世界にも心を開いて、人生の最後を少しでも明るく生きたいと願っている。そして、空の大悲が響き渡ることに促されてこの世に生きてきた、「響存」としての人生を最後まで全うしたいのである。

 最後に、坂村真民さんの『二度とない人生だから』という長い詩の一部を、私の祈りに代えて、この論考を終わりたい。

 

 二度とない人生だから

 一輪の花にも

 無限の愛を

 そそいでいこう

 一羽の鳥の声にも

 無心の耳を

 かたむけてゆこう

 

 二度とない人生だから

 一匹のこおろぎでも

 ふみころさないように

 こころしていこう

 どんなにかよろこぶことだろう

 

 二度とない人生だから

 いっぺんでも多く

 便りをしよう

 返事は必らず

 書くことにしよう

 

 二度とない人生だから

 まず一番身近な者たちに

 できるだけのことをしよう

 貧しいけれど

 こころ豊かに接してゆこう

 

 二度とない人生だから

 つゆぐさのつゆにも

 めぐりあいのふしぎを思い

 足をとどめてみつめてゆこう

 

 二度とない人生だからのぼる日しずむ日

 まるい月欠けてゆく月

 四季それぞれの

 星々の光にふれて

 わがこころを

 あらいきよめてゆこう

 

                   (平成24年12月12日  記す)

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