カウンセリングについて考える(21)

(21)COが自分を知ることの必要―自己分析と「転位と逆転移」への眼差し

 また、カウンセリングの中でCOが知らなければならないのは,CLのことばかりではない。自分自身のことも知る必要がある。

 このCO自身とは第一に普段の自分――自分の性格や対人関係における癖や陥りやすい傾向などをいうのだが、これらをよく知り、必要な改善を図っておかないと、CLとの関係においてもそれらが出て、マイナスに働く可能性があるからだ。(この点については、この後更に触れる)。そのためにはCO自らが自己分析をしっかりしておくことが求められる。出来れば、自分もカウンセリングを受けたり、教育分析を受けることが望ましいのである。

 もう一つの自分自身とは、カウンセリング場面の中で、CLとの関係の中で動いている自分、つまり〈CL――COの関係〉のことである。これに気付いていなければならないということである。

 カウンセリングで出会うCLが、CO自身の歩んできた道や過去の経験と同種の道を歩みかつ経験していると分かった場合,COはこのCLことがよく共感的に理解出来るばかりでなく、親近感や好意をも感じるものだ。COがCLに対して抱くこの親近感や好意はカウンセリングにおいてとても大事な要素ではないかと思う。何故ならこのような愛を受け取ることこそがCLの人生で最も欠けていたものであり、これを示してくれたCOにCLも好意と信頼を寄せるため、その自己開示が深まり、自己理解や心の安定感の増大にもつながるからである。COが幾ばくかの好意をCLに感じないようなカウンセリングが、うまく行くとは考えられないのである。

 しかし、CLの経歴や経験がCOのそれと似ているからと言って,C0がCLに対して好意を感じるとは限らない。むしろCOが拒否的なり、冷たく反応するかも知れない。何故なら、CO自身が抱えている問題が未解決であったりCLの問題が自分のそれと重なったりすると、どうしてもCLに対して拒否的になってしまうからである。このようなCOに対して、CLが心を開く筈がない。むしろ敵意を抱くようになるかも知れない。これではカウンセリングがうまく行く筈がない。先ほどCO自身の自己分析の必要を述べたのはそのためである。

 今まで述べてきたのは,CO側からの反応とそれに対するCLのリアクションだったが、これとは逆に、CL側からのCOに対する好悪の反応がまず先にあって、それに対してCOが好悪の逆反応を示す場合も多い。

 これらの相互反応はカウンセリング関係につきものだとさえ言えるだろう。先に述べた関係も含め、このように錯綜したCO――CL関係を、精神分析では「転位――逆転移関係」として特に重視することは周知の事柄である

 人間には過去の重要な他者――特に親やきょうだい――との関係を、現在の別の対象関係に投影するという抜きがたい傾向が備わっているので、カウンセリング場面でもそれが起きるのは致し方ない。ただ、私たちはそのことを自覚して、カウンセリング場面での自分たち二人の関係に絶えず注意を払い、マイナスの関係に陥らないように注意を払わなくてはならない。最初に触れたキューブラ・ロスと精神病院の患者たちの間に見られたごとき陽性の「ポジテブな転位――逆転移関係」はなかなか起こらない気がするのである。我々としては、「ネガテブな転位―逆転移」関係にだけは陥らないように注意するしかない。そしてそれは充分可能だと思っている。 

 私はここで「離見の見」という世阿弥の言葉に触れたい。この言葉は、彼が室町時代の昔に書いた『花鏡』という著書の中で述べているものである。――

 見物席から見る舞台で舞っている現実の自分の姿と自分で見る自分の姿(我見)とは違っている。しかしこの我見は、「離見の見」――即ち、自己の肉眼を離れ、心を見物席に置いて心眼で客観的に見た自分の姿――ではない。これ〈離見の見〉が出来たとき初めて自分を見極めることが出来るのである。自分の前後左右だけではなく、肉眼の及ばぬ後姿までを見抜く〈離見の見〉によって、身体全体が調和した優美な舞姿を保つことができるのである。「返々、離見の見を能々見得して、眼をまなこを見ぬところを覚えて、左右前後を分明に安見せよ(眼は眼自身を見ることが出来ない道理を悟って、前後左右を心眼で明らかに見得するがいい)。定めて花姿玉得の幽舞に至らん事、目前の証見なるべし(そうすれば、花や玉にも比すべき幽玄な舞姿を獲得することは、火を見る如くに明らかであろう)。」

 なかなか含蓄のある言葉だが、要するに、事後に、時間的な距離を置いて眺めるのではなく、今のこの瞬間に、心理的な距離を置いて、自分を――カウンセリング場面で言えば、CLとの関係の中で動いている自分を――眺めることの重要性を述べているわけだ。これは転位と逆転移の自覚の重要性を、芸道の奥義を窮めた者の体験から言い当てた深い言葉だと私は思っている。難しいことではあるが、修練によってこんな離れ業――まさに離れる技である!――も可能だと世阿弥は言うのである。

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