カウンセリングについて考える(19)

(19)  観音信仰と菩薩行について

 私はここで「観音様」と「菩薩行」について触れたい。先ず観音信仰であるが、観音様は仏教伝来の昔から日本の民衆の間で信仰されてきた救済者元型である。「観音」――「音を観ずる」とは誠に興味深い言葉である。大百科事典を引くと、「観音」は略称で、原名は「観世音菩薩」(梵語アウロキテシラ)だという。これはアウロキタ(観)+シラ(音声)、つまり「悩める衆生の苦しみの声をみそなわす者」の意味であり、菩薩の慈悲を表す名であると書いてある。その言葉通り、観音様は母性原理が強く働いている日本の民衆の間では、どこか慈母のイメージをもつ〈救済者〉元型を投影されて,悲しみにつけ、苦しみにつけ、依存と帰依の対象として親しまれてきたのである。観音様におすがりして、苦しい胸の内を訴える主人公が日本の民話や昔話にはよく登場する。

 仏像も、有名な法隆寺の百済観音や同寺夢殿の救世観音をはじめ、現存する仏像中では観音像が最も多いと言われている。「観音様」という言葉には、日本人の血の奥に流れている何かに呼びかけてくる不思議な懐かしさのようなものが、まとわりついている。

 このような歴史的な背景をくどくど言うのは他でもない。各種の相談機関や電話相談センターに相談を持ちかけてくる世の人々の心の中に、まさに「観音様」におすがりする心が活性化しており、またそのような世間の人々の悩みの声に耳を傾け、その苦悩に同伴しようとするカウンセラーやボランテア相談員の心の中にも、観音という救済者元型が「響き返す」という形で働いていることを言いたいのである。

  観音信仰には救いを求める者と、それを助けようとする者の本質がよく示されていると思うが、仏教では人々の苦しみを和らげ、助けようとする行為を、特に「菩薩行」とも言う。(因みに、観音様も菩薩である)。菩薩行とは、「自未得度先度他」――「自分自らも未だ救われていないけれども、先ず苦しんでいる他の同胞を救おう」という行為である。つまり、菩薩といえども、自分も悩みや問題を抱えているのである。しかし、そうであるからこそ、苦しんでいる人を放っておけず、援助の手を差し伸べずにいられないのである。これこそ今カウンセラーを志す我々の心そのものではなかろうか。この自らも悩める者であることの自覚を持つ菩薩とい考え方は、先に述べた「傷ついた治療者」という考えとぴったりと符合することは、注目すべきことであろう。これから言えるのは、カウンセラーやボランテア相談員であるためには、自らも悩みを抱えた者であることがむしろ必須の条件であるということだ。

 しかしそうは言っても、重い精神疾患を患っていたり、未解決の大きな問題を抱えている人が他人の悩みや苦しみに寄り添えるかというと、それは無理だと思われる。このような人は似たような他者の悩みには耳を塞ぐか、自他の境界があいまいなため相手の悩みに巻き込まれて、どっちが苦しんでいるのか区別がつかなくなってしまう。そのため他人の援助どころではないという事態が生じてしまうのである。そうならないためには、カウンセラーは自分の悩みや問題を、完全にとは言わないまでも、ある程度まで解決し、抜け出していることが必要である。カウンセラーには苦しんでいる他者に「寄り添えるが、巻き込まれない」強さと健康さが欠かせないのである。菩薩はそういう要件を備えた存在であった筈である。

  もう一つカウンセラーを志す者にとって「人生経験を積む」ということの大切さをあげておきたいと思う。このことは最近、資格問題で大学院卒が必須条件となり、そのため若い大学院出の臨床心理士がカウンセラーの主流を占めるようになって、人生経験を積んだ中年以後のカウンセラー――一昔前にはこういうカウンセラーが多かった――がこの世界への門を閉ざされてしまったといういきさつがあるので、特に強調したいのである。

 人間の悩みは人生の諸段階に応じて種々雑多である。人の悩みに共感するためは、必ずしも相手と同じ体験や悩みを経験する必要はないが、ある程度似通った体験や見聞がなければ、相手の苦しみは分かり難いし、共感も出来ないのではなかろうか。COには人生経験が必要であることは常識であろう。この業界では禁句に近いかも知れないが、私は敢えてそのことを指摘しておきたい。臨床心理学会などで若い臨床心理士たちの事例発表を聴いていると、知識や理論ばかりが先行して,CLの苦しみがよく分かっていないと思われるケースにしばしば出くわすからである。

 しかし一方、COの人生経験や見聞の豊富さがマイナスになることも多い。特に年配のカウンセラーの中には、年下のCLに向かってカウンセリングの中で、自分の過去の経験や見聞を語りたがる人がいる。そこには確かに役立つヒントがないとは言えないが、聞く側からすると、自分の悩みとは微妙に違いを感じ取って白けてしまったり、今の自分にはとてもそんなこと出来ないと落ち込んでしまったりして、効果はないのが普通である。人生の経験は常に諸刃の刃であることを心に留めて置きたい。 

 ここで私は、カウンセラーとして機能するに相応しくない性格特性と言うか、人間的な歪みにつぃて思い切って触れておきたい。こういうタイプの人間が案外カウンセラーと称する人たちの中にも散見されるからである。一つは、物事を自分で仕切ったり、他者を操作するタイプの人である。もう一つは、自分は自己のことを殆ど語ろうとはせず、そのくせ他者の打ち明け話には興味を持つタイプの人である。このタイプの人間はよく見れば、他者との親密な関係は持てていないのだが、自分ではあまりそのことに気付いて悩んでいる風でもない。困ったことにこういう人は、得てして他人のことに関わりたがるのである。

 しかし、こういうタイプのカウンセラーは本来カウンセラーには不適格なのである。何故なら、他者を操作したがる人は、どうしてもどこかで自分を押し付けたくなるので、CLが自由に自己の問題を探索する場であるカウンセリングにおいて、共感的にCLについ行けずイラついてしまうからである。また、自己開示しない――と言うより、自己開示出来ない人は、自己の悩みを打ち明けるCLとの関係の中でしか人間関係が持てない人である。しかし親密な関係とは、相互的な自己開示によってのみ可能となるものだ。確かにカウンセリングではCOは余り自分のことを語らず、専らCLだけが自分のことを語る。このことは、自分を語ることが苦手なCOにとって、誠に好都合な場だと言えるだろう。しかし、しかし面接の場でCOは語らずとも、日常の場で自分をオープンに出来るCOだけが、カウンセリングの中でCLの話を許容的に聴け、従ってCLの自由な語りを引き出すことが出来るのである普段自己開示をしないが、カウンセリングの場面ではよく聴ける、などということは本来あり得ないのである

 そして普段自己のことを語らないCOは、決まってスーパービジョンを受けたがらないのが特徴的である。自分に自信がないので、オープンになれないのであろう。

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