カウンセリングについて考える(16)

(16) 「父性」の取り込みと「親密な友人」の獲得

 (イ)「父性」のモデル  

 カウンセリングの仕事をしていると、圧倒的に気が付くのは、養育期における母性の欠如の問題である。しかし、実は、少年期から青年期にかけて、父親から父性の取り込みに失敗したために、困難をきたしているケースも結構多いことに気付かされるのである。

これから取り上げる夢は、(11)で既に出した定時制高校生F君の見た夢である。

   父親の存在感のなさを示す夢

気が付いたらお父ちゃんを殴っていた。しかしお父ちゃんはこんにゃく玉みたいに手応えがなく、おまけににんまり笑っていたので、拍子抜けした。

 ――不登校あるいは閉じこもりの原因はなかなか複雑であって、これと言った一つの要因にその全てを帰することは出来ないが、ある不登校児がよくなってから過去を振り返って「あの頃の自分には心にしっかりした芯のようなものがなかった。それで学校などで人と交わる時、どうしていいか分からず、ただ人に合せることで、やり過ごすしかなかった。人の顔色ばかり見ていた。それで疲れ果てて、外に出れなくなったような気がする」とのべたことがある。私はこの「心に芯がない」ということが、不登校の本質を最もよく言い当てていると思うようになったことは、前に述べた

 問題は「心の芯」を作るにはどうすればよいのかということになろう。実はこれは幾つかの道を時期を追って複合的に辿らねばならい人生の根本問題のように思われる。先ず必須なこととしては、乳児期における母親の母性的専心、幼児期からの母親の情動調律的な応答や鏡像的な照り返しであり、それに続く時期において、親が手出しや口出しを控えて、子どもの自主性を尊重しながら見守ること、更に野外での集団遊びを通して社会性を育てること、などがあげられよう。しかし父親が父性を子どもに示す次のようなこと――けじめやルールを体得させ、困難に立ち向かう強さや忍耐力を示し、現実的な判断や行動の決断のモデルとなり、如何に生きるべきかの方向性を教えるなど――も、すべて子どもの心の芯作りに欠かせない重要な教育過程と言ってよいと思う。このようなプロセスを経て初めて、自己開示すべき体験が蓄積され、相手を受け止める優しさと、我が意に沿わぬ不当な仕打ちに対してはNo!と言える強さとが身に付くのである。

 このF君にはこれらのほとんどが欠けていた。F君の家では、父親が頼りなく、母親がクリーニングの注文取りをする副業で頑張らねば、経済的にやっていけない有様だったので、母親は幼いF君を自分が運転する車の助手席に乗せて、毎日注文取りと配達に走り回ってきたのである。だからF君は自分だけで自由に、あるいは仲間と一緒に、遊んだ体験がなかったのである。いつも母のそばに縛り付けられていきてきたのだ。F君は母親のことを“キツネ目”をした「怖い母」と言いながら、その母から離れて一人で行動する――例えば、相談室に一人で来ることすら出来なかった。それほど母親に依存していたのである。

 しかしこのような母と息子の共依存の背後には、弱く頼りない父親の存在があったことを忘れてはなるまい。父親に強さと厳しさがなければ、子どもはシャンとできないのだ。「シャンとする」というのはあいまいな言葉だが、男の子のみならず女の子の成長にとっても、父親の強さは欠かすことが出来ないものである。F君はよく「あんなフニャフニャした父ちゃんを見てたら、僕シャンと出来へんのです」と言っていた。だからこの夢の中での夢主の行為は、敢えて父を殴ることで、父親からの反撃を誘いだし、父親の怖さ・強さを引き出し確認しようとする試みであったのだろう。しかし、その試みは無惨に失敗した。父親はこんにゃく玉みたに笑って何の反応も示さなかったからである。不登校児の父親像をこれほど鮮やかに示した夢はない。

 ここでの夢の機能は、父親から強さを引き出そうとする目的性も示されてはいるが、それよりも、むしろ夢主が薄々は気付いているが、まだ十分に意識化していない現実を、つまりこの父ちゃんには強さを期待しても無駄だという現実を意識化するにあったようにも思われる。このような現実の「意識化」も夢の大事な機能である。

 さてこのF君のように、現実の父親から父性を貰うことが出来ないことは実に多い。そんな場合は家庭の外で、社会に出てから、自分の父親以外の男性――多くは学校や仕事上の先生や上司などに、尊敬できる男性のモデルを見つけ、その人物から「父性」をもらうのである。乳幼児期の母親代わりを、大きくなってから見つけることは極めて難しいが、父親の代りのモデルは結構見つけ易いのではなかろうか。

 ところで、このような父性欠如のケースで最も深刻なのが、弱い父親の問題よりむしろ暴力を振るう「恐ろしい父親」である。このような家庭では、母親も暴力に怯え、子どもを十分に守る母親としての機能も果たせていないことが殆どである。このような家庭で育った子供のことを、ひと頃「アダルト・チルドレン」と呼んで、注目した時期があった。今はさほど言われなくなった気がするが、状況は変わっていないと思う。このような生育歴の持ち主は、大人に対する強い恐怖心の他に、自己否定と自信のなさも強いため、自分の感情を表現することが出来ず、対人関係から引いてしまっているため誠に生きづらい人たちである。このようなケースも母性剥奪の成育歴を持つケースと並んで、カウンセリングの場で治療が難しく、長い治療過程を辿ることが多いように思われる。

  ここでもう一つ是非触れておきたいのは、カウンセリングの中でCOの父性が要求される場面である。例えば,CLが面接時間の延長要求、低学年の児童などが時として示す気に入った箱庭アイテムを持ち帰りたいという申し出、自分や他者を含めた生命体への毀損欲求、女子高生などの援助交際などが、カウンセリング場面で話題に持ち出された場合,COはどう対応すればよいのか。

 そこでCOに要求されるのは、母性よりも父性である。例えば時間の延長については、状況によっては、大幅な延長もあり得るのだが、原則としては、後の面接に食い込むことを理由に断るのが当然であるし、たとえ後が空いていても時間は守るべきである。約束やルールを安易に崩してはならない。箱庭のアイテムの持ち出しはいかなる理由によるとも、これは皆が使うものだからと言って拒否すべきである。自他の生命に対する傷害欲求に対してはなお更明確にこれを阻止すべきであるし、援助交際についても、理屈抜きにNO!を言うべきである。「すり減るもんじゃないし、誰にも迷惑を掛けないからええやん」などという屁理屈に付合う必要はない。気持ちは受け止めるが、行動面では『ならぬものはならぬ』のである。

 このように,時としてCOには断固とした父性の強さが要求されるのであるが、日頃受容・共感に努めるCOにとって、このような断固たる拒否は腰砕けに終わりやすいので要注意である

 (ロ)「親密な友人」の獲得

 次に臨床の場でよく出会うのは、高校生や大学生などの若者の中に、同年輩の同性とどう付き合っていいか分からないことで、地獄の苦しみを味わうものが少なくないという問題である。

 大人になるということは、生まれたときからの母親との濃密な関係を断ち切って、自立することである。しかし人間は文字通り「間柄」存在であって、人との関係なしでは生きていけない。だから母との関係が薄らぐにつれて、その空白を埋めるものとして、同性の仲間との友情関係が重要なものになってくるのである丁度その頃第二次性徴の出現する大きな変わり目――人はこれを「第二の誕生」と呼ぶくらいだ――に差し掛かるので、なお更、不安や悩みを何でも語り合える親密な友人関係が必要になってくる。 

 中・高生までは、友人がいなくても、勉強面で良い成績を上げて――つまりdoingの面で成果をあげているうちは、何とか自尊心を保っていけるけれども、大学生ともなると、友人がいないことは自分が人間としての魅力――beingの価値に欠けている証左のように思えてきて、大学のキャンパスの中を教室から教室へ一人で移動し、誰からも話しかけられない毎日が耐えられない苦痛になってくるのである。特に、昼休みの昼食時が鬼門である。周囲で皆が楽しそうに団らんしながら食べているのに、自分ひとりが誰からも相手にされずに黙々と食事をする惨めさは、例えようもないものらしい。だから学食を避けて、昼はわざわざ電車に乗ってターミナルまで出かけて、そこで食事を食べる者まででてくるのである。そしてそのように孤立した学生の何割かは不登校になり、自宅や下宿に閉じこもり始めるのである。

  何故こんなに人付き合いが出来ない若者が増えたのだろうか。

 既に25ページで不登校児F君のことを述べた個所でも触れた現代っ子に多くみられる「芯のなさ」と関係するのだが、ここでは特に、現代っ子には屋外で、仲間集団で遊ぶ体験が欠けていることを指摘したい。子どもにとって真に生きているときは、外で遊び回っている時だけである。勉強やお稽古事の時間が楽しくて堪らないなどということは先ずないであろう。しかし真に生きている時の体験以外に人間の人格の中に取り込まれるものはない。だから、子どもの頃は遊びだけが「心の芯」を作るのだ。   

 それも屋内でテレビを見、テレビゲームに耽り、まんがを読むといった「一人遊び」では駄目である。全身を使って駆け回り、飛び回って遊ぶ屋外での集団遊びが大事なのだ。昔、自動車も走らず、生活道路が子どもらに開放され、至る所に原っぱや広場があった時代には、そんな遊びがあった。その中で攻撃性を発散させ、ストレスを解消することが出来たのみならず、子ども仲間ともみ合う中で、我慢できずにケンカもしたし、何より仲間と遊ぶことの楽しさを知った。そしてみなと友達であるためには自分がどうあらねばならないかを学んだのだ

 今の子どもたちにはそういう体験と人格形成の機会がないままに、青年期にまで来てしまったケースが多過ぎる。青年期の「親密性獲得」という発達課題は、その前の子ども時代からの集団遊びなくしては、達成することは無理な課題なのである。しかしこうなったのも、彼らのせいではない。時代が変わり、子どもたちを取り巻く生活環境そのものが変わってしまったことに問題があるのである。自動車の溢れる社会となり、子どもらの遊び場所であった生活道路が消滅し、広場もなくなってしまったのだ。代わりにテレビが普及し、塾通いが増えて、遊ぶ時間も減ってしまった。遊ぶとしたら、家の中で一人でする遊びしかなくなってしまった。これでは子どもらの社会性が育つ訳がない。友達づきあいが出来にくい若者が増えたのも当然であろう   

 そして現代の若者の対人恐怖とも言える人間関係の取り難さが、相談室に持ち込まれた場合、それを相談室の中だけで解決することは無理であることが、今まで述べたことからも了解されるだろう。相談室の外で、人間関係のスキルを肌で覚える場を提供しなければならいことは明らかである。大学の学生相談室あたりでささやかながらそのような試みもなされているが、これは本来社会全体の問題として取り組まなければ、十分な効果は得られない気がする。

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