カウンセリングについて考える(10)

(10) 自罰傾向と他罰傾向

 人間は症状の訴えは別として、対人関係や仕事上のことで行き詰ったとき、それを自分のせいにするか、他人のせいにするか、つまり自罰的に考えるか、他罰的に考えるかに大別される気がする。現実は、いずれか一方だけの問題であることは先ずないのであって、割合は様々であろうが、必ず自分の側にも、相手の側にもそれぞれ何らかの原因がある筈である。にもかかわらず窮地に陥った人間は、得てしてどちらか一方に強調点が傾きやすいのである。極端な場合は、自分だけが悪い、相手だけが悪いとなってしまう。カウンセラーとしては、それをとやかく言う必要はない。いずれ揺り戻しがきて、現実に近づくからである。何時まで経っても自分だけ相手だけを責め続けるのは病的であって、そのCLの問題が解決することはないだろう。

 ここでは自罰や他罰の傾向を示すCLに対するとき、COが陥りやすい失敗や困難について述べることにする。

 先ず自罰的というか自分を責める発言をするCLに対して、初心のカウンセラーはそれを共感的に受け止めることが難しい。そのようなCLに対して「自分が情けないんですね」と応じたりすると、相手を余計に落ち込ませて、立ち上がれなくしてしまうのではないかと恐れるのである。だから大抵は「でも、お聞きしているとあなたはまだ若いじゃありませんか、若いときは誰でも失敗するもんですよ。失敗して成長するんです。頑張って下さいね」などと励ましてしまったりするのだ。言葉こそ違え、多くのCOが「でも・・・」で始まる叱咤激励の応答をしてしまうのだ

 しかし、これは余りいい応答ではない。何故なら、情けない自分をCOの前に開陳するとき、その裏側には、そういう弱く情けない自分をまな板の上に乗せ、そんな自分を克服したい、という成長願望が秘められており、COにその手伝いをして欲しい気持ちがあるからだ。人間はただ己の弱さや醜さを、他人にさらけ出すというただそれだけのために自己告白したりはしない。であるならば、C0はその願いに真摯に応えなければならないのである。それなのに、COが「そんなことはないですよ。あなたには他にこんないいところがあるではないですか」などと応じてしまうと、CLの自力による弱点克服の芽を摘んでしまうことになる。人間に備わっている自己成長の力を,COが否定しているのである。これは真の援助とは言えない

  これとは逆に、問題を他人のせいにして、他人を責めることに終始する他罰的なCLの話も聴きづらく共感しにくいものである。このような話は通常怒りの感情とともに語られるのであるが、さもありなんと思える一時的な怒りは受け止めるに困難はないが、延々とすべてが怒りの感情で塗りつぶされるような話には、COも附いていくことは難しい。

 怒りや攻撃性は人間が生きる上で欠かすことのできない重要な反発のエネルギーではあるが、怒りは本来の対象から拡大して、無関係な対象にまで拡散する性質がある。だから例えば,CLの怒りがその成育歴や現在の環境の中で関わりのある人間に向けられたものであることは分かっていても、毎回CLの激しい怒りを聴かされるCOには、その怒りの矛先が自分にも向けられているような気がして、聞きづらくなるのである。事実、CLは目の前にいる人間にもその元の怒りを幾分か向けてくるのである。特に境界例のクライエントにはその傾向が強い。このようなCLに対するCOの心構えとして、毎回CLの攻撃に耐えて、次の面接までに心の整理を行って「生き伸びることが大事」などと言われたりもするのである。 

 人生早期の成育歴の中で親の対応に対して抱いた幼児の怒りは非常に激しいもので、面接の中で、心の奥に押し込められていたこの怒りが浮上してくると、まさに「地獄の窯の蓋を開けた」様相を呈して、収拾がつかなくなることもあり得る。怒りを心の中に溜め込むことは良くない。しかし怒りは単純に吐き出せばよいとは行かないので、その対応には慎重さが必要である。

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