カウンセリングについて考える(9)

(9)診断は出来ても問題の背景は理解し難い

 先ほど上げた電話依存症の場合のように、診断名を付ける(病理を特定する)ことが、その病理背景――何故そのような病理が生じたのか――の理解と直結しているような場合は、COの対応も自ずと方向付けられる。つまり、CLが過去に受け取り損なった心の成長に必要な糧を、遅ればせながら補給すればよいわけである。勿論そのような補給がいかに困難なものであるかは別としてであが、少なくとも何をすればよいのかははっきりしている。

 多くの場合、CLの抱える疾患や問題の見立てや診断については、少し勉強をしたり経験を積めば、案外簡単にできるものである。しかし困るのは、そのような問題や疾患が生じた背景、つまり何故そのような病理が生じたのか分からないという点である。COにはある程度分かるが、CLは当事者本人であるにもかかわらず、いや当事者であるからこそ却って分かり難いのである。

 人間にとって苦痛なのは、病気の症状や苦痛より、「何故自分はこんなことになったのか?」ということが分からぬことだ。直面している事態そのもののしんどさもさることながら、事態に対するこのような「不得要領」の方が更に苦痛なのである。

 そこで精神分析では治療者の解釈を「投与」しようとしたのだろう。まるで医者が患者に薬を与えるときのように。勿論このような他人の解釈が当事者であるCLに受け入れられることは先ずなかった。すると治療者はこれを患者の「抵抗」であると称して、「投与」を繰り返したのである。傲慢な思い上がりと言うべきであろう。分析家の解釈も時には当たるであろうが、「私は治す人,あなたは治してもらう人」という上からの目線で言われると、人間は常に反発するものなのである。

 実はこの点が、身体の疾患を治す医師と患者の関係と心の問題を扱うカウンセラーとクライエントとの関係との、決定的な違いなのである。人間は身体の生理のことになると、自分には分からぬものと諦めて、専門家である医師に全面的に依存する傾向がある。だから医師は患者の訴えをよく聴いて、必要とあればレントゲン写真や血液検査などの結果をも参考にして、診断を下す。そしてこの診断に基づいて投薬や手術などの治療法を決め、患者はそれに従うのである。それに反対する患者は先ずいないだろう。つまり、治療の主導権は医師にあり、患者は治してもらう受け身の存在になるのである

 所が心理療法やカウンセリングはこれと違う。問題を解決し、疾患を治す主体はクライエント自身であり、CL自身が自分で自らの病理や問題の背景を理解することが必須なのである。治療者やカウンセラーは重要ではあるが、所詮はCLの自己理解を助ける脇役に過ぎない。カウンセラーが如何に優れた診断能力を持っていても、それが即CLがよくなることには直結しない。

 しかしCOがCLの問題や病理が皆目分からず,CLと一緒にさ迷っているのではこれまた話にならない。だから,COが一応の目安として診断することはどうしても必要である。ただ、まだ所詮は仮説に過ぎない見立てや解釈を上からの目線でCLに押し付けることは厳に慎まねばならぬことだ。

 (但し、うつ病の場合は例外だ。うつ病だなと見極めがついた時点で、COが根拠を示してはっきり「うつ病ではないかと思います。必ず治りますから精神科の医師に診断を受けて薬の処方や指示を受けて下さい」とCLに言う必要がある。さもないと、取り返しのつかないことになりかねないからである)

  カウンセリングがこの段階にくると、CLが自分の問題の背景を理解するのを助けるような誘導を、COの質問を通じてしなければならない。例えば,CLの問題が対人関係における失敗にあるとして、そのような失敗がCLの自信のなさや攻撃性の強さからくることが明らかになってきた時点で、このようなパターンは過去にも既に見られたのではないのか、学校での友人関係はどうだったのか、特にそれより前の原家族――特に両親や兄弟姉妹との関係はどうだったのか、というような観点からCLが自分を振り返るように促さなければならない。患者として治してもらう医療モデルに慣れたクライエントの場合、ここでも抵抗を示す可能性がある。

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