カウンセリングについて考える(2)

(2)感情表現 ―― 共感的受容ということ

 身を入れて聴くということは、具体的に言うと「共感的」に聴くということである。

 CLが自分の抱えている問題を語るとき、その一部始終には、「事柄」(話の筋・事柄・事実)とそれに伴ってCLが体験した「感情」という二つの側面がある。共感するのはこのCLの感情体験に対してである。大事なのは事実ではなく、その人の体験だからである。そしてこの感情体験は

     1.本人がそれを自分のものとして受け止め、十分に味わうこと

  2.またそれを誰かに話し、聴いてもらうという形で、外に放出すること

が必要である。

 しかし人間は自分の感情をしばしば「抑圧」する。怒りや妬みや恥ずかしさや劣等感などのネガテブな感情は、自分でも意識されないように抑え込まれやすい。自分に対して抑え込みはしないが、人に対してはそれとは分からぬように言外に、しかも話の微妙な言い回しや音声の抑揚によって表現するだけのことも稀ではない。日本人は直接的な感情表現よりも、むしろこのような間接的な表現を用いた以心伝心を好むので、注意が必要である。

 カウンセリングで大事なことは、カウンセラー(以下COと記す)がいくら自分では聴けた積りでも、それだけでは駄目で、COが聴けたことが相手に伝わらないといけないそれによってCLの感情体験を収めるところまで行かなければならないそれにはCOが「(あなたは)~と感じたのですね」と応答して返す必要があるのである。COになりたての人にスーパービジョン(以下SVと記す)する時、「どうでしたか?」と訊くと「よく聴けました」という答えが返ってくることがあり、では拝見しましようと言ってその逐語禄を見せてもらうと、感情に応答した言葉はほとんどゼロで事柄にのみ反応しており、しかもCLの発言よりもCOの発言回数の方が遥かに多かったりするのである。人間には「聴くための耳は二つあるが、話すための口は一つしかない」という人間の姿に逆行するような事態がここには見られるのである。

 しかし、共感的に聴くためにはCLの話の事柄よりも感情表現に注目しなければならないとは言うものの、事柄をきちんと具体的に訊くことをおろそかにしてはいけない。何故ならCLの悩みやしんどさを真に共感するためには、CLの話しを時系列的にきちんと把握し、また抽象的にではなく具体的に聴くことが必要であるからだ。例えば、職場で上司のパワハラを受け会社を辞めたくなっている人が来談したとしよう。この人の苦痛を共感するためには、何時頃からこのパワハラが始まり、どういう経過を辿って来たか、またどのような暴言やいじめだったかについて、実例を挙げて具体的に聴かなければ、本当に共感することは出来ないのである。

 そのためにCOは――特に面接が始まった頃は――そのような具体的な話や、話の時系列的なあいまいさについて、短くポイントを突いた質問を挟む必要も生じてくる。よく「COは余分なことは言ってはいけない」と教えられ、何も口を挟まぬよう頑張っている初心のカウンセラーがいるが、これはおかしい。COの興味本位から出た質問でCLの話の腰を折るのはよくないが、CLをよりよく理解するための質問なら、COはしてもよいし、むしろするべきなのである

  また「共感」は「同情」や「見立て」(診断)・「解釈」とも違っている。(これらが必要な場面については後で触れる)

 同情は相手と一体化して共揺れすることである。自他の境界が消えて相手の問題と自分の問題が重なってしまい、聴き手の方が激しく動揺してしまう状態である。いわゆる「入れ込んでしまって」、オーバーな同感の言葉が口をついで出てくる状態だ。これに比べて共感の応答はややクールに聞こえるので、たまには同情のもつ強い感情のこもった応答が生きてくる場面は確かにある。しかし基本的にみて、同情的な応答が多い人は、自我境界が弱いか、または自分の抱える同じ問題が未解決という場合が多いように思われる。これではCLの方でも安心して相談が出来なくなるだろう。

 共感と同情の違いを比喩的に言えば、京都の真冬の鴨川で職人さんが友禅流しをしているところへやって来た人が、河岸に立って「さぞ寒いでしょうね」と言うのが、〈共感〉であるとすれば、川の中にじゃぶじゃぶ入って行って、「うわー!こりゃ冷たい!」と叫ぶのが「同情」であるとでも言おうか。後者のようなやりかたをすれば、川の中の職人さんも迷惑するのがおちであろう。

  また診断解釈も後で触れるように、カウンセリングの中で必要なものであるが、共感とは異なる。診断や解釈するとき、COはCLを対象化して距離を取り、その症状面にのみ注意を集中して、科学者のように客観的に観察しているのではなかろうか。その心を共感によって響かせたりはしない。そのような態度でしか見えてこない部分があることは確かであるが、CLが一番求めているものはこんな故障個所を見極める科学者か修理士のクールな目ではなく、傍に寄り添って、自分の話に耳を傾け心を一緒に響かせてくれる共感であろう。診断や解釈は面接場面を離れてからなすべきことだ

  私はここで、人間にとって自分の感情をある程度吐き出すこと――いわゆるカタルシス――の必要や大事さを示す夢について語りたい。私は長年自分をも含め、多くの人の夢を聴いてきたが、その中でトイレや排泄に関する夢が非常に多いことに気付かされてきた。気持ちよく排泄した夢は少なくて、どこのトイレも汚れていたり、先客がいたりして、用が足せず困っているといった夢が大半を占める。このような夢を見なかった人は恐らくいないのではなかろうか。このことは何を物語っているのだろうか。

 そもそも排泄とは何か。この生理現象はあまりにも日常的な営みなので、私たちはその意味を忘れがちになるが、このような夢を理解するためには、その辺りから考えて見なければならない。すると、こんなことが考えられる――人間は生きるためには、必ず毎日食べ物を摂取し、それを消化し栄養やエネルギーとして吸収しなければならない。しかしこのように生きるに欠かせない栄養やエネルギーを得た代償として、食べたものの中に含まれる身体に不必要な部分や、生命活動の中で日々生じる老廃物なども溜まるのである。我々は毎日これらを体外に排出せねばならい。それが排泄ということだと。そんなことは分かり切ったことだ、と人は言うかもしれない。

 だが、ちょっと待って欲しい。夢がただそれだけの分かり切った生理現象をわざわざ夢にまで見たりするだろうか。夢は日常的な身体レベルの体験を、別の心理的な体験の暗喩(メタファー)として利用しているのではなかろうか。キリストは「人はパンのみにて生きるにあらず」と言ったことを思い出して欲しい。人間はパンだけでなく、生きて行く上では「心の糧」をも日々摂取しなければならない存在である。「心の糧とは、我々が人間と様々な形で交わり、他の動植物とも接し、さらには自然の風物とも接し、本を読み、芸術作品を享受する――そのような様々な営みの中で多様な感情体験をすること――特に愛や喜びや安らぎや希望を見出すことは、まさに「心の糧」をうることに他ならない。

 しかし心の食事においても、我々は心の生命維持に必要な養分ばかりではなく、必ずそれに付随して心に不必要で有害な要素、例えば、不安や恐怖、怒りや憎しみ、嫉妬や疎外感などをも同時に吸収してしまうのである。だがこのようなネガテブな感情は人を生き辛くし、心を蝕むものだ。だから人間は日々の排泄のごとく、それらのマイナス感情を心の外に吐き出す(カタルシス)作業が必要になる。

  いや問題はマイナス感情ばかりではない。喜びや愛情や笑いなどのプラス感情だって、それを十分に味わい咀嚼することが必要だ。そうでなければ、それは本当に自分のものにならない。体験し、かつ味わうことが生きるということなのだから。しかし感情を味わうにしろ、感情を吐き出すにしろ、感情の表出には適当な受け皿が必要なのだ。そこが身体の排泄と違うのである感情というものは原則的として、一人で勝手に吐き出し味わうことは出来ない、と言うか、一人では完結しないものではなかろうか。例えば、壁に向かって叫び、或いは一人ベッドの中で独り言を言ってもあまり効果がないのだ。必ず誰かそれを聴いて受け止め響き返してくれる人間の相手が必要なのである。しかし現実にはそんな相手がおいそれと見つかる訳はないのだ。トイレを探すしんどい夢が出てくるのはそういう感情のはけ口が見つからない時である。これらの夢が語っているのはネガテイブな感情の吐け口を見出しかねている心理的状況を示しているのである。

 カウンセラーがクライエントのネガテブな感情を受け止める役割を引き受けるのは、夢の文脈に即して言えば、カウンセラーがクライエントに対してトイレの役割を果たすことだと言っていい。つまり人の悩みを聴くということは、しんどい「汚れ役」でもあるのだ。だから、カウンセラーは吐き出されたものを一先ず受け入れはするが、後でそれを必ずきれいに水で流し去って、汚れを残さない水洗トイレであることを心掛けなければなるまい。そうでなければ、自分も汚されるこんな損な役割りをいつまでも続けることは出来るものではない。

Copyright(c) Mental Care Tennoji All Rights Reserved.