カウンセリングについて考える(1)

メンタルケア 天王寺 

所長 誉 田 俊 郎

(1) 心を込めて聴くこと――「初心忘るべからず」

 カウンセリングがいわば「聴く」ことに始まり「聴く」ことに終わることは今更言うまでもないことだろう。そして「聴く」とは何はともあれ、「傾聴」――つまり心を込めてクライエント(以下CLと記す)の話を聴くことである。そして幾ばくかの経験を積んだ後も、初心の懸命さを忘れないことである。カウンセラーになりたての頃は誰でも一生懸命相手の話に耳を傾けるものである。この熱意がCLの心に響き、CLの心が感応して変化を呼び起こす。しかしカウンセラーとして経験をある年月積むうちに、この初心の熱意はとかく失われがちである。「ああまたあの手の話だ」と突き放してクールに聞いてしまうのである。

 だが悩んでいる人間は自分の話を聴いてくれる相手の熱意を敏感に嗅ぎ分けるものである。身を入れて熱心に聴いてくれていないと分かると,CLの心は引いてしまい、カウンセリングの効果はなくなるのである。精神科の医師の間で「beginner′s luck」(初心者の成功)という言葉もある。英国自殺防止協会サマリタンズの創始者チャド・バラが「befriending」(友達になること)の重要性を説いたことを想起すべきであろう。

 私はここでキューブラ・ロスの逸話を紹介したい。彼女はスイス生まれであったが、色々曲折を経て、結婚したアメリカ人についてニューヨークにやってきた人である。彼女には医師の資格はあるものの、就職先として見つけたのは、治る見込みのない精神分裂病患者を収容しているマンハッタン州立病院だった。まだ英語に慣れていない彼女にとって、分裂病患者の英語はちんぷんかんぷんだった。彼女は精神医学のこともほとんど知らなかったらしい。

 彼女は惨めで、不幸だったが、結婚したばかりの夫を悲しませたくないので、患者たちに向かって心を開き、彼らの惨めさ、孤独、絶望に自分を重ね合わせたのである。するといつの間にか、患者たちが話し始めたのだ。二十年間も口をきかなかったひとたちが、自分の感情を口に出して表現するようになったのだ。彼女は不意に、惨めなのは自分だけではないということ、しかも、自分の惨めさなど病院で暮らすことの惨めさとは比較にならないことを悟ったという。

 それからの二年間というもの、彼女はただひたすら彼らと一緒に過ごし、宮清祭、クリスマス、過越祝、復活祭を一緒に祝った。それはひとえに、彼らと孤独を分かち合うためのものだった。言葉は通じなかったが、「私たちは愛し合っていました。本当にお互いのことを大切に思っていました私は必死に耳を傾けました。彼らの言葉にではなく、言葉によらない象徴的な語りかけに対してです。」―(中略)―

 彼女は患者たちのことを、17号室の分裂病患者とか53号室の躁うつ病患者とかして覚えるのではなく、全員を名前で覚え、全員の好みや癖まで覚えた。すると彼らはキューブラ・ロスに対して正常な人間としての反応を示すようになった。

 「二年後、私は治療の見込みがないと思われていた分裂病患者たちの、実に94パーセントを退院させることが出来ました。生活保護を受ける者としてではなく、ニューヨークでちゃんと自活できる人々としてです。私はこのことを誇りに思っています。患者たちが私に教えてくれた最高の贈り物は、薬や電気ショック療法や医学を超えた何かがあるということを教えてくれたことです。つまり、真の愛と配慮があれば、本当の意味で人間を救うことが出来る、それも大勢の人を救うことが出来るということです。

 私はここで、知識は役に立つけれど、知識だけでは誰も救うことが出来ないと申し上げたいのです。単に頭だけではなく、心と魂を使わなくては、一人の人間だって救えません。

  長い引用になったが、ここにはカウンセリングの核心がすべて濃密に語られていると思うからである。勿論、医療行為を伴わない我々のようなカウンセリングルームがキューブラロスのような熱意だけをたよりに、統合失調症のような重い患者さんを引き受けることにはよほど慎重でなければならないが、上記の引用にはカウンセリングで一番大事なことが語られていることは確かである。これを読んだ後でカウンセリングについて何を言おうが、濃厚なエキスの後に薄めた液を飲むように物足りぬかも知れないが、濃いものの後に飲む希釈液の舌触りも悪くはないとも思うので、以下に私なりの考えを幾つかを書いてみたい。そこには西欧的な発想の中に、かなり日本的な発想が色濃く混じっていることに気付かれる筈である。

 

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